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学び、気付きのキロク

言語化することと言語化できることのギャップについて〜相手に伝える手前くらいがちょうどいい〜

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感情を言語にすること

例えば花を見て、例えば本を読んで、心があったかい気持ちになったとします。誰かと話していて心地よく感じたとします。それを人に伝えようとしたとき、私たちはその感情を言葉にして、誰かに伝えようとしますよね。

 

今感じていること、思っていることを言葉にするのって楽しいなって思います。相手がどんな反応をするのかワクワクします。何言ってんだって顔をするのか、イメージしようと耳を傾けるのか、同じ感性で共感するのか。それに、自分が何を感じたのか、何を思ったのか、何に心が動かされるのかも知ることができる。それが言葉のチカラ。

 

言葉の限界

ただ、しっかり説明しきってしまうと、相手に「つまりこういうこと?」って言われてしまうと、元あった気持ちとは少し変わってきてしまう。定義のある言葉を、定義のある言葉として話すとニュアンスのフレキシブルさがなくなって、輪郭がぼやけていたはずの感情に輪郭を作ってしまう。そうなると、「そうじゃない」ってなる。

 

言葉がうまれた起源について知りませんが、きっとコミュニケーションを円滑に進めていくために、共通のワードが必要だったんですよね。だから、ネコって言われたらネコを想像する。多分ヘビを思い浮かべたりはしない。

 

言葉の持つフレキシブル性

でも、想像するネコはいろんな種類のネコがいます。多分10人に聞いたらみんな違うネコをイメージしますよね。

 

”I love you.”を夏目漱石が「月が綺麗ですね」って訳したみたいに、言葉には大きなフレキシブル性がある。これは疑いようのないことだと思います。でもそこをニュアンスだけでなく、「なんで?」「具体的には?」って深堀り続けると、途中まではどんどんイメージを膨らませることができるのに、あるところを境にイメージがしぼんでしまう。ぼやけていたはずの輪郭に、輪郭を作ってしまうから。もちろんそれが有用な時もありますが、感情とか気持ちを表現するときはちょっと違う気がするんです。

 

相手に伝える時は、よく分からないくらいでちょうどいい

これは逆もしかりで、相手の言っていることがよく分からないくらいがちょうどいい。なんでも分かるなんてありえないし、そう思ってしまうのは傲慢な気もしちゃいます。

 

小学校に上がる前に何度か同じ夢を見ました。雲をつかもうとする夢。でも絶対につかめない。つかんだ!って思ったらそれは綿で雲じゃない。あんなにはっきりと白いのに、それでもつかめない、そんな夢。

 

私たちの気持ちもこれと一緒だなって思うんです。つかめそうで、つかめないもの。だからそれをどう表現するかが面白い。きっと日々起きていることも同じで、全部分かることなんてありえない。でも知っていること、知っている言葉でそれをなんとか表現していく。でもそこには明確な輪郭は存在しない。

 

言語化することと言語化できること。イメージをふくらませることと、ふくらまし過ぎてしぼまないようにすること。伝わる直前が一番大きなイメージが持てて、一番伝わっている瞬間。

 

「よく分からない」がちょうどいいし、「分からない」ことを忘れないようにしなくちゃいけない。